漆芸の沼

九州のうるし(序)

<はじめに>九州うるしのき

昨年、日本文化財漆協会さんからのご依頼で
九州の漆芸について取材し、小さな記事にまとめました。

会報誌『漆文化』135号掲載。
あれから1年が経ちます。

古くは川や海などの水運を介して広がった漆文化。
歴史的に九州と漆は強い絆で結ばれています。

縄文期の遺品こそ少ないものの、
弥生期では北部九州の漆製品は突出した
質と量を誇ります。

律令時代の租庸調では
北部九州から漆液を納めていました。

大宰府政庁跡では、高官が使用したと思われる
漆器がたくさん発掘されています。

漆川という地名もあったと
『筑前国続風土記』にみえます。

残念ながら、現代の地図に「漆川」は残っておりませんが
嘉麻市「漆生」(うるしお)は健在です。

江戸時代になると、
八女(福岡県)、川辺(鹿児島県)など
木材豊富で水運が発達した地域で仏壇が作られました。

それらの地域には、今でも
塗師、蒔絵師がいます。
ただし、活躍の場は特注のときだけです。

今でも櫛田神社へ通じる中洲川端商店街には
仏具屋さんが軒を連ねていますが、
そのような門前町には
塗師さんがいたようです。

獅子舞の獅子頭を修理したり、
お神輿を塗ったりするのは彼らの仕事でした。

かつて大濠公園近くにお住まいだった塗師さんの関係者から、
昭和16年に撮影された写真を見せていただきました。
(何かご存知の方、情報提供をお待ちしております)

戦後の産業構造変化で、
仏壇や籃胎も化学塗装に変わります。

明治期に興った久留米籃胎漆器も、
昭和中期にはウレタン塗装になり、
漆産業は衰退。

平成に入ると、風前の灯となります。

我々も、
「市中の漆文化は終わるのではないか?」
と思ったことが何度もあります。

ところが今、
漆の活用を試みる方が新規に参入しています。

漆黒の闇を経た
今の状況を一言であらわすなら
夜明け前
でしょうか。

上述の『漆文化』では、
取材できなかった方、
後から接点を持った方、
文字数の都合で掲載できなかった内容など
悔やまれることが多々あります。

そこで、今、
九州で漆の灯を守り継いでいる方々、
これから漆の明かりを灯そうとする方々を
不定期になりますが、
当ブログでご紹介させていただこうと思います。